2012年11月12日月曜日

俺のなかの虫のいい動物について


これまで、「世の中」では畢竟カネがものをいうらしいけれど、
貧乏人どうしではそうではないだろうと、
それならまずまずだと、いう気がぼんやりとしていたのだが、
そんななかでも有力無力ということがどうしてもあることにここ数年で気づいた。
というか自分自身がそのような考え方のタガからのがれることができない。

けだし、イニシアチブとは、
好きなことを好きなようにやる意志を発揮できるか、ということなのだろう。
思えば5年ほど前から、
資本主義の支配を破壊せよ、という指令のもとに、
なにをいやがるかも、破壊の方法も、美の感覚も、
みずから支配されつづけてきたような気がする。
サミット体制崩壊以後の、主人なき奴隷犬の実態。

ある友人が言っていたように、たしかにひとりではいかにもむずかしい。
意志を発揮するまえに、話しあわなきゃならないことがある、
ほんとうに自由だと感じる必要がある、
発揮しながら幸福になる必要がある、
この段階がまだ俺にとっては存在しない。
というか存在してるのだけど、存在していない。

「成すことは成し得ることであり、
成し得ることは成すことである。
畢竟我々の生活はこういう循環論法を脱することはできない。
――すなわち不合理に終始している」(『河童』より)

人生の無駄さ加減やいい加減さ、よろこびに、情けなさに、おかしさに、
死を思うときの息苦しさに、
思想も言葉も追いつかない。
だからだれがなにを言ってもいいではないか?
その通りだ、だれもお前を抑圧などしていない、
「運動」はそのように言うだろう。
しかし、社会や目的があるかぎり、
あるいは人間がいるかぎり。

アナーキストは真っ黒で細くて足が速くないとだめですか?
青猫の着ぐるみを着てドタドタ走って転んだりしていてはだめですか?
バーの名前はかっこよかったり、言いやすかったり、覚えやすかったりしないとだめですか?

とりあえず文科省・経団連・東大名誉教授「新幹線飛び級」ジジイ、
あとこないだ飲み屋で俺に生意気なことぬかした見知らぬオッサンには、
生き方を猛省していただきたい。まあまず無理だとは思うけど。
俺はいつも思っていることしか言いたくないし、
できないときもあるけどせめて酒飲んでるときぐらいは正直でいたいんだ。
まあ酒飲んでなくても俺は高潔だから思ってることしか言えないけど。
勝つために、凌駕するために、かしこくみせるために、
成果を出すために、すこしでも運動を進展させるために、
すこしでも世の中が良くなるために、より沢山食うために、
なにかを言うってのはおかしいんじゃないのかな?
いわんや、棟梁の梁材だの短歌ポートフォリオによる自己の作品化だの
「いや意味はどうでもいいんだけどさ、言いづらいんだよ。○○○にすべきだったな」
(それはお前が年食って呂律が回らないだけだろ!)だの、すっこんでろと言いたいね。

俺はただなんとなく、たまたまいまの状態にあるだけで、
意志をつらぬいていまの状態にあるわけじゃない。
同時に、それと矛盾するようだけれど、一瞬一瞬の判断は
意志(直感)によってなしている。
そのとき、明日のために「この判断」をするわけじゃない。
ところが、明日生きるために動物的な直感で
ほとんど無意識のうちに手をゆるめたり、
意志を眠らせたりすることがある。それがおそろしい。

「出て行け! この悪党めが!
貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、ずうずうしい、うぬぼれきった、
残酷な、虫のいい動物なんだろう。出ていけ! この悪党めが!」
(ふたたび『河童』より)

0 件のコメント:

コメントを投稿