2013年3月12日火曜日

「内乱である」と告げることが

「内乱である」と告げることがしんどくなってきた。
もはや波打ち際でなく、沖の渦潮のなかにいるからなのか。
遠洋イカになって人外境の冷たい海をさまよいたい。
あたかも〈田舎の友へ〉のような論戦、などと浮かれていた時期をすぎて、
「まあいろいろいるさ、核資本主義だもの。
こぼたれた圧力容器の下から虫も湧くさ」
とも言っておられなくなり、
虚構の出来不出来を評定し、
内乱の正義と真理を一致させるやみがたい欲望に歯がみする。
わたしは39歳か58歳で死ぬのだろうか?
それともやっぱり、先日、深夜、とある駅でであった、
旧式の車いすをじわじわと駆動する
そこひのおじいさん(推定80余)がわたしの明日であろうか。



夕陽を見つめてぼんやりしているときに、われわれは生きることの神秘について考えているのかもしれない。そういうときにわれわれは、表象空間の廃墟に一人佇んでいる。プラトンの「洞窟」やキリスト教の教会にもつながるこの空間は、宇宙とは何か、存在とは何かと問いかけることを許した。そのなかに入ることによって、われわれは日没の地平線という舞台に人類の生誕の神秘を読むことができるようになった。画期的なことは、そのようにして神秘的なものへの信仰や、真理を探究するための科学的な思考が生まれたことである。しかしこの空間は、言葉をもつことによって不在の幻惑にさらされるようになった人類が、その幻惑から遁れるために創りあげたものでもある。われわれは考える葦かもしれないが、自然のなかでもっとも弱い一本の葦にすぎない。(岡山茂「ハムレットの大学」)



ところで問題は、言うまでもなく断じて、
「まきちらされた放射能は生物にどのような影響をおよぼすか」だけではない。
それは多くの人が指摘しているように、
あなたやわたしのではないかもしれないがとにかくだれかの
病苦や屍によってのみ証明される「科学」であり、
みずからの病苦や屍をもってそんなものを証明したくもないし、
あるいは証明されようがされまいが諾々としていられるものかと考える者は
放射能からできるだけ遠ざかって生きればよいし、
そう考えない者はもちろん、
「デマと差別のない、平穏で安全なすばらしき社会」の「なか」で生きていけばよい。
要は自分がどうしたいかを知ればいいだけである。
ところが、なぜか内乱めいたものが勃発する。
社会という家(囲いのようなもの、あるいはチンコカバー?)を
是が非でも「みとめられた仮構」「チンコをみとめてくれる仮構」
としてもたねば生きられないものと、
警察さえ来なければはだかでよだれをたらしながら万引きしたいくらいに考えていて、
仮構といえばおのれのつくりだすものと考えているもの、
とのあいだの内乱、なのであろうか?
はたして、かれらはわれわれの敵対者なのだろうか?
現下の内乱は「影響が出る/出ない」をめぐる「科学的論争」なのだろうか?
否である。問題は文学であり、
畑の肥やしにもならないものを敵対者とみまがうことで見失われるもの;
つまり、オッサンの自慢から核発電の夢までをふくみこむ
自己チンコイメージの耐えがたい腐臭であり、
内乱とはわたしと自己チンコイメージとの戦争である。
(ただし、もしかしたら殴りあいにまで発展するかもしれない
いさかいを避けたいとは思わない。
万一、かれがわたしの前にあらわれてくれるのなら、
わたしは迷わず乱闘しよう。)



ふくいち爆発後に「元気になった気」になっている自己チンコイメージは、

◎デマ
◎差別
◎カルトおよびその信者
◎情報収集のしかた・情報の読みかた
◎情報の恣意的な解釈
◎寄生虫
◎非国民
◎3・11という日に「なんでこいつ生きてんの」などということを言う輩の「感性」
◎自滅
◎豆腐メンタル
◎無責任
◎集団でものを言う
◎感情的

といった言葉を罵言としてもちいるのが大好きである。
いっぽう、「資本主義」や「装置」については驚くべき鈍感さをみせ、
おのれ自身も世界も科学も感情と解釈に根ざしていることには全く気づいていない。
社会に熱烈に恋こがれており、
twitter とかいうもので発表される文言は、もののみごとに、
「朗らかな言語不感症」(佐々木高政『英文解釈考』)を証して余りある。
「科学」が自律的に存在すると素朴に信じこんでいて
(つまり「イマジネールな知」の支えがなければいかなる「学」も成立しえないことを知らず)、
基本、本を読まないので、科学の「ショー性」や仮構性について完全に無知である。



「デマ潰し」にいそしむ自分たちのアゲアゲ感じたいが
フィクションであったらどうする気なのだろう?

Radio Maroon が事故直後に述べていたとおり、
「いいですか、(推進派は)すべてカネ、カネ、カネなんですよ!」
という面もある。
核資本主義下の自己チンコイメージは、
往々にしてカネの支えがないと機能しない。
いくら恋慕の情をつのらせ、かれなりの努力をかさねても、
いっこうかれを「有能者」として賞賛しない「社会」は、
かれにとって、いつの日か参入を許される天国のようなものであり、
いわんやそれが「放射能に汚染された」ことなど断じてみとめられない。
そこで、勇躍、「デマ・差別潰し」を遂行するわけだが、
この偽の敵対者たちの面構えは、いかにもできすぎていないだろうか?
ひょっとしてかれらには、カネがわたっているのだろうか?
そうだとすればむべなるかなで、
「SNS」(=「社会的網目による(捕獲)装置」)時代の、
当然ながら各種資本を広告主とする、
「社会」の装いをまとった新しい(そして陳腐な)広告ということになるわけだけれど、
かれらは「社会」の屋根ないし鎧がなければなにもできず、
けっして「思ったこと・感じたことを言う」ことができない存在なので、
真実はわからない。
もし、カネすらもらっていないのに
広告として勤労しているのだとすれば、度し難い奴隷ぶりである。



プラトン以来一貫して、科学の正当化の問題は、施政者の正当化の問題と切り離されることなく密接しているのである。そうした展望のもとでは、それぞれの権限に従う諸言表が互いにその性質をまったく異にしているにしても、何が真であるかを決定する権利は、何が正しいかを決定する権利からけっして独立していない。すなわち、科学と呼ばれる言語のジャンルと、倫理ないしは政治と呼ばれるもうひとつの言語のジャンルのあいだには関連があって、どちらも同じ展望、あるいは同じ《選択》から生じたものなのである。そして、この選択こそが《西欧》と呼ばれるものなのである。(ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』小林康夫訳、水声社、1989、p. 25)

さて、自己チンコからみれば、これも(たとえ東大の大先生が訳していようとも)
「カルト」だし「陰謀論」ということになるはずである。
科学はみまごうかたない「実証」に拠って立つのであって、
金輪際「正当化」される必要なんてないのだから。
ぜひ、東大を「仕分け」してみていただきたい。
自己チンコの考えでは、駒場はとうぜん、カルトかつ陰謀論者のはず。
「デマ」の大本営は東大駒場だった!
行け、自己チンコ! 放射脳にかまっているヒマはない!

いつの日か、「放射脳」という言葉も、「知識人」のように、
蔑称から一般名詞なったりするかもしれません。

放射脳:反放射能・反核の立場をとる人の意。
またその立場や思想をさす場合もある。
もともとは、2011年に発生したフクシマの災厄を機に、
放射能が生物の生命・健康や地球環境におよぼす負の影響を懸念する人々にたいして、
主として経済・復興・技術を優先すべきと主張する人々が、
「福島差別につながる」として弾劾したさいにもちいた蔑称。

なんちて!



どっこい、無責任なもの、自滅してゆくもの、
あなたがたが「アカ」とののしってご満悦のコミュニズムだけが、
核汚染下の(そして人類発祥以来の)真実だ。
現在は、16世紀や19世紀のヨーロッパにも似ているし、
だれかが言っていたように犬公方さまの17世紀日本にも似ている。
それならわれわれは、富士山でも噴火するまで、
借金をいっさい返さず、必要なら盗み、できるだけ働かず(資本を疎外)、
詩や歌や踊りや脱糞によって、正義と真理、言葉と物が、
一枚の薄紙の裏表ほどもわかちがたく感得される(した気になる)日々を過ごそう。